The Fine Game of Nil ~虚無の素敵な戯れ*~

日々感じたこと、読書や研究のためのメモとしてまったり使っていきます。主なトピックは進捗報告と哲学についてです。コメントは気になったものについては返信させてもらいます。*訳は村山達也(2017)による。

3月第1週 進捗報告

① 目標

設定なし

② やったこと

学会があった。講義録『形而上学の根本諸概念』講義を半分まで読んだ

③コメント

水曜日の午後と木曜日の午前をちゃんと使えなかった。計画をちゃんと立てていなかったのが良くなかったと思うので、来週からはしっかり計画を立てておきたい。今週はとにかく課題をたくさん立てているので、それを一つずつこなすことを通して効率を上げていきたい。SZの予習に追いつくのが大変そうなので水曜木曜はこれに割いたた方が良さそうかな。金土日は開くので、試験勉強的になんとかこなすというスタイルでいこう。これまでのよくなかった点として、やややることに偏りがあったので、きちんと時間制限はかけて、その上でバランスよくやりたい。多分全ぶはできないと思うので、今週の成果を踏まえて調整を試みる。

④ 来週の課題

二月第3週 進捗報告

① 今週の課題

②やったこと

色々と想定外の出来事があったのもあってほとんど進められなかった。こういうことがよくあるので立て直す仕方については何とかしたいな。火曜日と土曜は出かけなかったのは目標達成に失敗した。先週は遅くまで起きてうまく行ったが、やはり長持ちしなさそうなので普通に25時くらいには寝たほうがいいんだろうな。研究関連は第一稿はできなかった。FAは読んでいない。心理学も読んでいない。仏語、独語はできなかった。メタ倫理は途中まで。哲学書も読めてない。

③ コメント

やはり夜型はあまりよくないんだろうという感じがする。朝は7時に起きることを目標に、来週は毎日朝ご飯を食べること目標にする。

来週ははぼ研究がメインになるはずだが、研究一辺倒にならないようにはしたい。

2月第2週 進捗報告

① 今週の目標

② やったこと

論文まとめは結局できなかったけど論文の第1稿を挙げることはできた。実際頭のワークメモリに残ってれば細かいメモはなくてもいいのかもしれない。いちいちメモをとるのも気が進まないので、しばらくはこのやり方でやってみようかな。その場合、読んだ論文は片っ端から論文にして行った方がいいんだろう。絵本はなかなか気が進まなかったが、どうしようか迷いどころ。単語はどちらも日曜に駆け込みでやった。理想はこつこつやることだけど、GPもなかなか面白いしこれはこれでまあいいのか?ワーノックはいい本だった。コツコツ日本語を読んでいくのはありだね。価値論は読み終えた。最近ようやく英語が読めるようになってきたので、次からはメモなしでSEPを読んでいくことにチャレンジしたい。バリバリ論文読み回していきたいね。Millerも駆け込み。ツァラトゥストラは第一部まで。これものんびり行こうかな。不安の概念も終わった。杣道は読めてない。やはり研究優先も考えもので、家ではあまり研究はせずひたすら勉強するようにしたい。

ここからは予定外でやったこと。面談でFAについてアドバイスもらったのでSEpを読んでた。これも英語で行くのが早そう。またrelational goodが結構使えそうだという感触があるので、フィンレーのConfusion of Tonguesは序章を読んだ。急ピッチで読んでいきたいところ。

③ コメント

ベイビーステップはできた。やったね。来週は毎日最低3時までは起きて研究することかな。午前は最悪潰してもどんまいと言うことで。努力目標として10時くらいに家を出れたらいいかな。毎日家から出るのは継続したいね。原稿の初稿が上がったので、細かいアーギュメントを詰める作業がメインになりそうだが、研究自体はあまり時間を割かなくてもよさそうかな。とはいえ、原稿は無限ブラッシュアップ編なので、ひたすら初稿と睨めっこしつつ穴埋めという感じであまりタスク的にしない方がいいんだろう。
課題をこなす作業がどうも向いていないようなので、自分の興味の赴くままに乱読というのが、結局自分には向いているスタイルなのかもしれないというふうに思い始めた。日曜は時間があってもあまり効率が上がらないので、やりのこしたことを消化する日にしてしまおうかな?それから、何かを1日にまとめるのはよくない。研究ノートは1日一回は開いて、何かしら研究を進めるようにはしたい。
あと、そろそろハイデガーに本腰を入れるべきだという感じがある。今週一週間は正直様子見だが、メインをハイデガーの基礎文献の叩き込みに変えて、人生の意味をサブメジャーにしてやるというのは某発表の一週間くらい前までには原稿を揃えてできればやれることはやりたい。

④ 来週の課題

2月第1週 進捗報告

① 今週の目標

② やったこと

発表原稿については、必要なものは揃えられたと思う。あとは不足分は研究する中で読んでいけばいいかな。論文のまとめについてはできなかった、反省。単語帳については、ドイツ語は4分の1、フランス語は半分しか進まなかった。分析哲学については、ライカンは予定通り読み終えることができた。BCAについては二節のラッセルまでしかよめていない。正直あんまり意義を見いだせないところもあるのでOSIに来週は切り替えます。価値論についてはラストの節を残しています。ミラーは錯誤論法の最後を残して他は終わった。解釈学はできなかった、来週はスルーでとりあえずは。哲学書は曙光は読めていない。断片集を読むモチベがあまりないのでツァラトゥストラに切り替えます。不安の概念は第1章まで。ハイデガーは読めていないが、その代わりに『時間概念の歴史への序説』「芸術作品の根源」の一部を読んだ。あまり義務読書にせず興味あるトピック、特にこの二冊をまずしっかり読んでいきたい。

③ コメント

研究のスタイルがようやく固まってきたのでよい週だった。それでも週末はメンタルが死んでいてまともに研究できなかった。これについては来週は改善を期したい。具体的には、研究は午後から深夜というパターンで確定させることがとりあえず重要で、午前は研究できなくても仕方ないと割り切るのが大事かな。とりあえず午前ダメでもあまり落ち込まず、毎日外に出かけて研究することを心掛けます。ということで、来週はベイビーステップで毎日家の外に出るというのを目標にします。進め方としては、インプットを中心にとにかく知識を詰め込みながら頭を回します。少ない材料だと思い浮かぶものも限られるので、とにかくたくさんの文献に当たるという感じで研究は順調に進められそうかな。来週はそろそろ本格的な準備にはなるけれど、中心は先週読んだ三つの論文と睨めっこしつつ、飽きたら役に立ちそうな文献を探すという方針で行きます。火曜水曜の午後がバイトで潰れるというのもあるので、来週は勉強についてはやや軽めで、論文と向き合う時間を確保する予定です。

勉強については隙間時間をみて土日をうまく使いたいです。やはり25分ポモドーロが一番上手くいきそうだったので、ここは来週は堅持します。やや無理めな計画な感じもあるので、できなくてもそんなに気にせず気楽にやりたいですね。とにかく原稿優先で行きます。

④ 来週の課題

お久しぶりです

題名の通りお久しぶりです。といってもこのブログに読者がいるか、果たしてわかりませんが。さて、ブログの開設からはや3年になります。私はといえば、幸いなことにまだ細々と哲学を続けることができています。といっても、生きにくさが少しも軽減されたわけでもなく、多方面に多少知識がついた程度で、頭の中身はというと昔と何ら変わっていないように思いますが。

今後のブログの更新方針ですが、毎週のスケジュール管理と読んだ文献や論文の感想を書いていくものになりそうです。生来の面倒臭がりで遅々として研究が進まないのもあるので、根を詰め過ぎない程度に勉強のメモを残しておこうかと思っています。1月は年始から精神状態が悪く、かなり棒に振ってしまった感じがあるので、2月はなんとかドツボにハマらないように上手くやっていきたいです。

さて、来たる二月ですが某発表はあるとしてもとにかく楽しく研究していきたいですね。あまり思い詰めすぎず、研究のウェイトはむしろ芋づる式に論文を読むことと、哲学の基本をイロハから学ぶこと、その意味でインプットに重きを置く形で行きたいと思っています。私の場合、研究では頭が回ってもどうもアウトプットが苦手なので、インプットを通してひたすら論敵を倒すことを目指したいです。ただ勉強についてはある程度体系的にやってペースを掴みたいかなとも思います。まとめれば、研究はデータ集め、勉強は体系的に、でしょうか。何にせよ、死ぬことは大変でしょうから、命ある限り、苦しみながら何とか生きていきたいと思います。

 

今後ともどうぞよろしくお願いします。

「人生の意味」を分析哲学の観点から考える~①神を中心とする超自然主義(supernaturalism)

今まで様相論理やデカルトの論証など、このブログのテーマとは外れたところについていろいろと記事を書いてきたが、今回の記事ではいよいよ「人生の意味の哲学」という本丸に分け入ってみようと思う。これほどに重大な問題と対峙しようとするときに素手で挑むのは、少々心もとないどころか蛮勇とさえいうべきであろう。まずは戦うための武器を携えなければならない。そこで「哲学」である。先人の偉大な知恵と、せっかく持ち合わせている理性的推論能力とを用いない手はあるまい。とはいえ、キルケゴールヤスパース現象学実存主義etc.と、これらの偉大な思想家たち(とくに難解なその専門用語と概念)を一からたどっていくことはそれを専門とするする人にとってさえ困難な道であろうし、少なくとも今の私の手に負える代物ではなさそうだ。ということで、今回は分析哲学*1からのアプローチによる人生の意味の哲学の試みを紹介する。

 

 

そこで今回紹介するのは、人生の意味の哲学の多岐にわたる議論を整理し、この分野の体系的研究を可能にした第一人者、Thaddeus Metzが2002年に書いたサーベイ論文”Recent work on Meaning of life”である。本論文はGoogle Scholarの以下のリンクからダウンロードできるので、興味の湧いた読者は是非参考にして欲しい。

https://scholar.google.co.jp/scholar?hl=en&as_sdt=0%2C5&q=Recent+work+meaning+in+life&btnG=

 

本記事の内容からは少し逸れるが、この分野における彼の貢献は以下の本を抜きにしては語れない。人生の意味の分析哲学をはじめる最初の一冊としても大変オススメなので、こちらもリンクを付けておこう。現在、倫理学を専攻されている方とこの本の読書会を進めているので、近いうちにこちらの方も記事にしようと思っている。

Meaning in Life: An Analytic Study

Meaning in Life: An Analytic Study

  • 作者:Metz, Thaddeus
  • 発売日: 2016/01/30
  • メディア: ペーパーバック
 

自然主義(p.783-792)

この立場の論者が大まかに共有するテーゼは「純粋にスピリチュアルな領域(神、永遠の魂など)との一定の関係においてのみ人間の人生は有意味でありうる」ということである。Metz自身は論理的にはこれらの区分に包摂されない立場もあること認めている。とくに道徳に関して、たとえばカントの考えのうちいつくか、そのうちでもヌーメノン的な行為主体であること*2が人生の意味の必要条件であるという見方は、非自然主義的的なものとして考えることが出来る。しかしこれについての研究はまだ多くなされていない。

またこれらの超自然主義の中でも、たったひとつの要素を人生の意味の本質とする「純粋な」超自然主義と、そうではないものがある。

 

神を中心とする超自然主義(p.784-788)

神を中心とする超自然主義の基本的立場

神を中心とする超自然主義は、神と人間とのある関係性が人生に意味を与える、というものである。したがって、神とのどのような関係性において人間に意味が与えられるかについて諸説が相違することになる。これには大きくわけて4つの立場があるが、今までの議論でその中心となってきたのは、一番最初に提示している目的説*3である。

 

 私たちに果たすべき目的を与える神

神がいないならば、人間はなんの目的もなく生きていることになり、それは無意味である。神は人間に果たすべき目的を与えることができるため、神が存在するときだけ人生は有意味でありうる。

究極の価値の源泉としての永遠に存在する神
神は永遠に存在するため、「手段-目的」という価値的な遡及の終着点として、究極的な価値の源泉になりうる。したがって人生が有意味であるためには神が必要である。[Nozick]
全宇宙の記憶を持ち、そこにおいて私たちに意味を与える神
愛とは他人の経験を自分のものとして引き受け、その人を気遣い、それが上手くいっている時は共に喜ぶこと、そのことである。神においてわれわれのそのような福利は、われわれが気にかける人々の福利とともに評価され、不死化される。人生の意味は、他の人のそれと一体化して統一されることによるが、神のみが我々の経験を永遠に想起するので、人生の意味のためには神が必要である。[Heartshorne]
可能な限り最高の本性を持つものとして理念として存在する神
人生は、最も高く可能な人間の本性に向けられれば向けられるほど有意味になる、という完成主義(perfectionism)にもとづくもの。そのような最も高い偉大な本性こそが神であり、それと(現世にせよその外にせよ)親しく交わる、ということが人生の意味を構成するため、人生の意味のためには神が必要である。[Morris, Heartshorneなど]

 

これらの4つの立場のうち、Metzはとくに①に対する反論について詳細に述べている。

 

「人生は神がその目的を与えるときのみ有意味でありうる」という目的説への反論

反論1:神は存在しない、または存在しない見込みが高い

神の非存在、または存在の蓋然性の低さの主張。しかしこれは不十分である。あくまで神がいるならば、という前提のもとに議論をしているのだから、神がいなければ人生は無意味であるにすぎない。とはいえ、神がいないならばすべての人の人生に意味がない、というのは言い過ぎであるようにも思われるため、自然主義者たちはここを批判する。

反論2:神の目的は人間の自由を妨げる

神がいるならば、神が人間に果たすべき目的を与えるので人生は有意味でありうる、という命題に含意される疑わしい帰結を指摘する議論。

神が目的を与えているならば、①人間はただその目的にしたがっているだけであり、②われわれも何も決断しないため、自由と自律性が損なわれることになる。③人間の自由は損なわれてはならないものであるから、神が人間に目的を与える、という説明は間違っている、とするもの。これについては、多数の再反論がなされているので、それぞれ概略を説明する。

 

  • 再反論:②を批判するもの

われわれは「神の目的を果たすかどうか」という点で決断をしている、その点で自由が損なわれてはいないので、この反論は誤り。これについてはすぐさま、その自由は制限されたものに過ぎないという反論が考えられるが、以下に見るように超自然主義者たちは③を批判することも出来る。

  • 再反論:②を批判するもの

神の目的とは、われわれが自身の目的を果たすことである。したがって、われわれが自由に決断するということは神の目的に適っている。

  • 再反論:①を批判するもの

神の与える目的は強制ではなく、神聖な要求であり、われわれは神に押しつけられて目的に従うのではなく、神の要求に「応えている」ということができ、その点で決断をしている*4

再反論:③を批判するもの

そもそも神は人間よりも上位の存在なのだから、われわれの自律性が神によって損なわれることは構わない。

目的説の持つ根本的な問題点:「神の目的だから」ではなく「その目的が高貴でよいから」

しかし、この目的説は根本的な問題点を孕んでいる。それは、おもにNozick(1981)によって提案されたもので、超自然主義者たちは暗黙のうちに「神の目的は善いものであるか、あるいは高貴なものである」ということを前提している、というものだ。この説を立証するため、Nozickは神の目的が「宇宙人のごはんや楽しみとして仕えること」だと仮定してみて、それでも超自然主義者がその主張を維持し続けられるか、という例をあげている。もしこれに納得が出来ないのであれば、「神が目的を与えていること」よりも「目的が高貴であったり、善いものであること」の方が重要であり、そのことが人生を有意味にするのだ、という方が説得的であるように思われる。

この議論はこの説のもつ、根幹の前提とその問題を明るみにだすものである。それはすなわち、「なぜ『神の目的を果たす』ことが『われわれの生を有意味』にするのか」、またこの命題の逆である「なぜ人生を有意味にする目的は神のものでなければならないのか」という問題である。そこで次にはこの問題について見ていくことにしよう。

 

「なぜ『神の目的を果たす』ことが『われわれの生を有意味』にするのか」とその逆についての4つの見方 

道徳の神命説(devine command theory)

行為の道徳的な理由は神の目的に適う何らかのものによって作り出される、という説。すなわち、われわれが道徳的に行為しようとするときに、その動機を考えてるならば、それは神がそのような目的を与えているからである、というものである。これにはすぐさま古代ギリシアからの問題である「エウテュプロン問題(エウテュプロンのジレンマ)」*5が提起されることになる。概略を言えば、「神の目的だから有意味」なのか「有意味だから神の目的」なのかどちらであっても、それぞれ神の完全性を主張する有神論者にとっては望ましくない結論が導かれる、というものである。

神のみが目的達成の報奨を与えられるため

神の目的を果たしたものに対して、神のみがその報奨を与えることができるから、人生が有意味であるためには神が必要だという説。しかしこれにも手強い反論がある。この考え方においては、神の分配する報酬である幸福や効用(virtue)が人生の意味を構成するように思われるが、その場合、神の目的を果たすことはそのための道具に過ぎないように思われる。加えて、カルマ的な非人的力が幸福を分配するのであるから、それが神である必要はまったくない。

唯一の必然的存在者として我々を偶然性から救うため

神の目的はわれわれの生を偶然性から救う。われわれ人間は偶然的存在*6である。神は必然的存在者であるから、われわれの生のあらゆる局面において、われわれの存在が偶然であることを防ぐことができる、という説。しかしこれらについては神とは別のもので代用することが出来るため、それらによって偶然性を防ぐことは可能である。加えて、この説は神の目的を果たすことが人生の意味において必要条件であることを示すことができていない。というのも、ここで重要なのは決定されていること、予期されていることであって、神ではないからである。

「世界」という作品に意味を与えられるのは意図的創造者としての神のみのため

この説によれば、神の目的が人生に意味があることの必要十分条件であるのは、音楽作品と音との関係との類比によって捉えられる。ある音が音楽作品(あるいはパッセージやメロディ)の一部として意味を持つのは、それが作曲者の意図的行為によって造られたものであるときのみである。同様に、世界が何らかの意味を持つためには、それが世界の創造者たる神の意図的行為にもとづく場合のみである、と、この説の論者は主張する。しかし、この説にも問題がある。ここで述べられている「有意味である」対象は神の被造物たる世界であり、そこでは自由な意志をもたない人間以外の美的対象にも神によって与えられている。そうなった場合、人間が神の目的を達成するために自由に行為することは必要ではない。

 

以上四つの説に対して主張とその反論を見てきたが、いずれの説においても目的説の理論的根拠を見つけるのが難しいのには理由がある。神を中心とする自然主義は全般的に、神のみがもつ特徴に訴える必要がある。この特徴がわれわれの持つものに近ければ近いだけ、他の人間との関係が人生の意味にとって十分なものだと考えるのに足りる、より多くの理由を持つことになる。したがってこの説においてより説得力のあるものは、ひとの人生を、われわれが証明しえない非時間性、不変性、単純性といった、神のみが持ちうる完全性に向けることによって重要性が得られる、といったものである。ところが、これらの性質は論理的に目的をもつことは両立しないと考えられているから、神だけがわれわれの人生に意味を与えられるとしたら、神は目的をもった行為主ではありえないのである。

 

この議論に対する目的説の反論は以下のものが考えられる。ひとつめはカントやトマス・アクィナス的な考え方にもとづくものであり、非時間性、単純性、不変性と目的をもつことが両立可能であるとするものである。もうひとつは、神が意味を与えるのは、以上の性質ではなく、神の持つ他の性質(たとえば神が創造主であること)であるとするものである。後者については、神が創造者であるためには神は非時間的存在である必要があり、もとの批判がまた妥当することとなる。

 

*1:ここではもちろん即座に「じゃあ分析哲学ってどんな手法よ」という疑問が提示されよう。この問題に答えるのは容易ではないが、Metzに関してのみならば、久木田(2017)「人生の意味についての言説はどのような言語ゲームなのか」における以下の定式化は妥当であるように思われる「Metz [4] は伝統的な分析哲学のスタイルで人生の意味について語ることを目指した著作である。すなわち メッツはここで、人生の意味についての言及を含む言明、例えば「アインシュタインの人生には意味があっ た」というような言明について、できるだけ疑問の余地なく意味を明瞭化すること、それが真である場合と偽 である場合を分ける明確な条件を特定することを目指した」

*2:カントは『実践理性批判』において、人間がただ、現象界においてカテゴリー的に妥当する因果律に従う存在ではなく、自らの感情や欲望に逆らって道徳的に行為しうること(このことをカントは「理性の事実(factum der vernunft)」と呼ぶ)に着目し、そのことから、人間がただ現象界において生きるのではなく、自由の秩序に基づく道徳的な物自体(ding an sich)の、ヌーメノンの世界における「人格(person)」であることを結論する。ここでは後者の「人格」としての人間の在り方を指している。

*3:「現代はニヒリズムの時代だ」という言い方がよくされるが、その多くは「神(あるいは究極的に価値のあるもの)なき時代には果たすべき目的や本当の価値はない」という形をとる。その意味で、大半の人は人生の意味についても目的説をとっているだろう。

*4:これは余談だが、ここでの議論はライプニッツの自由論における「傾けるが強いない(incliner sans nécessiter)」神を彷彿とさせる。詳細は根無一信「介入せずに介入する神―ライプニッツにおける連続的創造と神の協働 ―」、『哲学』第六四号、日本哲学会編、二〇一三年を参照のこと。

*5:詳しくはプラトン「エウテュプロン〈プラトン全集1〉」岩波書店、2005年とIEPのDivine Command Theory (https://www.iep.utm.edu/divine-c/)を参照されたい。

*6:ここで言う「偶然性(contingency)」は多義的である。Metzはここで、明白な理由なく生み出されたこと、たまたま今のようにあるがこのようにあるべき理由がないこと、これからどのように生きていくべきかなんの予想もないこと、の3つを挙げている。

哲学の「論証」を分析してみよう ~デカルト『省察』より第二省察

今回の記事は哲学の話題についてである。哲学において「論証」が重要なのは言うまでもないが、実際に哲学者がどのように論証を構成しているかを分析するのには骨が折れる(そしてこれが、哲学研究者あるいは文献学者の仕事の一つでもある)。今回の記事においては世界で最も有名な哲学書のうちの1冊、デカルトの『省察』から第二省察「人間精神の本性について。精神は身体よりも容易に知られること」を取り上げ、その論証を分析した上で再構成することを試みようと思う。 

 

翻訳は以下2冊を参考にした(以下ページ数は井上、森訳による)。それぞれ日本語、簡便な英語で書かれており、ラテン語やフランス語が堪能でない(私のような)素人でも手軽に読むことができるはずであるから、読者諸賢におかれてもぜひ一読することをお勧めする。*1

 

 

The Norton Introduction to Philosophy

The Norton Introduction to Philosophy

 

 

【第二省察の概要】

デカルトの「我思う故に我あり」は非常に有名だが、第二省察でもこの証明が(簡易なものではあるが)行われている。しかし第二省察はそのタイトルの通り「人間精神の本質」を探求するものであるから、ここに留まるわけにはいかない。すなわち「ここで示された「私」とは一体いかなるモノなのか?」という問いこそが、まさにこの省察におけるデカルトの課題なのである。そこで、まずはデカルトの根本命題である「われ思うゆえに我あり」の第二省察における論証をチェックしたのちに、「『我あり』というときの『我』とはなにか」という問題に対してデカルトがどのように応えているかを確認する。このような下準備のもとではじめて、彼がいかにして「精神は身体よりも容易に知られるということ」を導いているのかが理解できる。ではさっそく、その足跡を辿ってみよう。

 

【第二省察における「我思う、ゆえに我あり」の証明】

ここではじめにデカルトが行っている論証自体は『方法序説』のそれと大きくは変わりなく、「Je pense donc je suis.」、ラテン語であの有名な「cogito ergo sum」である。注意するべきは、ここでデカルトが[直観①]に対してとっているスタンスである。方法序説や第一省察においては、これを一般化し「あらゆる懐疑のたびに懐疑するという判断が生じている」という形で述べている。第二省察においても同様のことは示唆されているが、あくまでここは翻訳に忠実に論証を組み立てた。

 

  1. 私の意識において、感覚が示されている[事実]
  1. 私の意識において、感覚が示されているならば、それはすべて偽でありうると判断している[方法的懐疑の結果]
  1. 私の意識において、感覚が示されているならば、それはすべて偽でありうると判断するとき、私の意識においてある判断が生じている[直観①]
  1. 私の意識においてある判断が生じているとき、私の意識のただひとつの判断の主体が存在する[直観②]
  1. 私の意識のただ一つの判断の主体が存在する[1と2,3,4に推移律を適用]
  1. 私の意識において、判断の主体は「私」である[定義]

∴「私」は存在する

 

 

デカルトはこの論証に対して考えられる批判を想定して、以下のような再反論も行っている。大した手間ではないので、[直観②]への批判と、その再反論いついては一応確認しておこう。他には[直観①]を批判する道も考えられるが、これには多くの問題が関連し、この記事の本題から外れてしまうのでここでは省略する。

  

1.⑶は偽である(判断が生じているからといって、その主体があるわけではない)[論証の前提への批判] 

2.⑶が偽であるとき、私の意識において欺かれており、判断の主体はない[想定] 

3.私の意識において欺かれているとき、欺かれている主体が存在する[直観]

∴ 欺かれている主体が存在する[2と3にMPを適用]

  

いかがだろうか。これが第二省察におけるデカルトの「われ思うゆえに我あり」の論証である。さしあたりこの論証の評価については保留し、とりあえず本文の以下の記述(pp.245〜)を追ってみよう。次に示すべきは、ここで言われている「私」がなにものか、すなわち私の本質とはなんであるか、についてである。

 

【必然的に存する「私」とは考えるもの(=精神)である】

結論から言えば、デカルトにとって「私」の本質とは「考えること」であり、それ以外のなにものでもない。ここからデカルトは「私は考えるもの(=精神)である」ことを導く*2。この証明においては、参考までに以下に関連する箇所を抜きだしておこう。

 

「しかしながら私は、いまや必然的に存在するところの私が、いったいいかなるものであるかは、まだ十分には理解していないのである。(中略)そこで私は、このような思索をはじめる前には自分をなんであると思っていたのかを、あらためて考察してみよう」(pp.245)

 

「その際、最初に浮かんできたものは、私が顔や手や腕をもち、もろもろの肢体から成る全機構をもつということであった。(中略)次に浮かんできたのものは、私が栄養をとり、歩行し、感覚し、考えるということであった。私はこれらの活動の源は精神にあると考えていた。(中略)これ〔引用者注:精神のこと〕が身体の粗大な部分(つまり手や腕や足など)にゆきわたっているのだと考えていた」(pp.246)

 

  1. 「私」とは物体に属するか、精神を源とする諸活動であるかのどちらかである。[直観③] 

2.任意の物体は、なんらかの形によって限られ、場所によって囲まれ、ほかのすべての物体をそこから他のすべての物体を排除するような形で空間をみたすようなもの…という性質を本性としてもつ[直観④]

3.「私」は物体の本性に属するといわれるものについて、それのうちどれひとつも性質として持っていない[方法的懐疑の結果]

4.「私」は物体には属さない(「私」は物体ではない)[2と3にMT(後件否定)を適用] 

 

  1. 任意のものについて、それが精神を源とする諸活動を行うとき、栄養を摂取するか、歩行するか…であるか、感覚するか、または考えるかのいずれかである[事実]
  2. 栄養を摂取し、歩行するか…または感覚するものはすべて物体である[事実]
  3. 「私」は栄養摂取する、歩行する、感覚するもののいずれにも属さない[4と6にMTを適用] 
  4. 任意の性質pと任意のxについて、xが存在するときxはpという性質をもつことがつねになりたつならば、xは必然的にpという性質をもつ[デカルトの前提①]
  5. 任意の性質pと任意のxについて、xが必然的にpという性質をもつとき、xはpするものと同じであることは必然的である[デカルトの前提②]
  6. 「私」が存在するとき、「私」は考えるという性質をもつ、ということはつねになりたつ[方法的懐疑による結果]
  7. 「私」は必然的に考えるという性質を持つ[10と8にMPを適用]
  8. 「私」が考えるものと同じであることは必然的である[11と9にMPを適用]

∴  「私」は考えるもの以外のものではない[1と4と7と12に排中律を適用]

 

 

【考えるものである精神としての「私」が、私によって最も明証的に知られるものであることの証明】

さて、いよいよ本丸である。これまででデカルトが論証してきたことを用いて、ようやくこの省察のメインとなる命題が示せる。この論証は非常に長くなるため、論証を見ておく前に要約してみよう。

ここまでで「私」が考えるもの、すなわち精神にほかならない事が示された。以下の論証の[直観⑤]にあるように、実体である精神は現実では、疑いや意志、感覚などの形をとる(哲学の専門用語でこの事を様態[羅:modus]という)。ここからデカルトは、精神のいかなる様態においても、考える私=精神そのものこそが最も明証的に把握される、ということを、[直観⑥]以下で場合分けを行いながら論証している。

想像したり何かを意志したりする場合を考えてみると、そのときに「『私』が存在すること」が(しばしば曖昧な想像や意志の中身よりも)明証的に把握される、というのは納得のいかない話でもないだろう。しかし、ここで問題となりそうなのは外界にある「物体の把握」である([想定]より以下)。我々は普通に物体を把握する際、自分自身のことよりも物体の方を明証的に把握すると考えるが、デカルトによればそうではないという。蜜蝋を把握するとき、それを感覚したり想像する(場合分けの(ⅰ)と(ⅱ))のではそのものそのものを捉えることはできない。そして、精神のみをもちいて蜜蝋の広がり(=延長)を捉えるとき(場合分けの(ⅲ))にはじめて、あらゆる変化のうちにあって耐続する蜜蝋そのものが把握できるのである。

そして、このような精神そのものによる把握はつねに次のようなかたちをとる。すなわち「私は蜜蝋を見る(と思う)」と。ここまで来れば合点がいくだろうか。すなわち方法的懐疑がそう示してきたように、この場合にあっても「〜と思う『私』」の存在が帰結するのだ。さらにこの場合、蜜蝋は(錯乱や精神的不備によって)実在的には存在しない可能性もあるのだから、蜜蝋の存在よりも、「考える『私』」の存在の方が明証的だ、ということも出てくる。

そしてここまででついに、精神の様態について全ての場合分けを検討することができた。いずれの様態においても「考える『私』が存在する」ことがもっとも明証的に把握されるのだから、「考える『私』=精神」はそれ自身の存在を(身体、物体などのほかのものよりも)明証的に把握するということが言えるだろう。

 

 【私の精神が、私によってもっとも明証的に把握される】

  1. 「私」は考えるもの(=精神)である[前の論証の結論]
  1.  考えるものには疑い、理解し、肯定し、否定し、意志し、意志しないものであり、想像すること、また感覚すること、物体を把握することが属する[直観⑤]
  1.  疑い、理解し、肯定し、否定し、意志し、意志しないとき、想像するとき、私の意識にあらわれるその主体(=「私」=精神)は、最も明証的に知られる[方法的懐疑の結果]
  1.  蜜蝋という外界の物体を把握するとしよう[想定]
  1. 蜜蝋を把握するとき、感覚、想像、精神そのもののいずれかによってとらえられる。[直観⑥]

(ⅰ)感覚によって蜜蝋を把握するとき

  1. 感覚によって蜜蝋を捉えるならば、感覚によって捉えたもの(=蜜蝋の色や香りなど)は変化し、存在しなくなることがある[事実]
  1. 感覚によって捉えたものが変化し、存在しなくなるとき、蜜蝋そのものが存在しつづけることは可能である[事実]
  1. 任意のものとその把握について、その把握が明証的であるのは、そのものそのものを把握するとき、かつそのときのみである[定義]
  1. 感覚によって蜜蝋を捉えたものは蜜蝋そのものではない[6と7に推移律を適用する]
  1. 感覚による蜜蝋の把握は明証的ではない[9と8にMPを適用] 

(ⅱ)想像によって蜜蝋を把握するとき

  1. 想像は変化をつうじて存続する蜜蝋の広がりを、その変化が有限の間である限りにおいて把握する[直観⑦] 
  1. 蜜蝋のもつ広がりは、無数に変化しうる[事実]
  1. 想像によっては、蜜蝋のもつ広がりを捉えられない[11と12にMTを適用]
  1. 蜜蝋そのものとは、蜜蝋の広がりのことであり、それ以外ではない[直観⑧]
  1. 想像によっては蜜蝋そのものを捉えられない[13と14を同値変形する]
  1. 想像による蜜蝋の把握は明証的でない[15と8にMPを適用] 

(ⅲ)精神そのものによって蜜蝋を把握するとき

  1. 精神そのものによって蜜蝋を把握するならば、外的な形態と区別してものそのものを把握する[直観⑨]
  1. 精神そのものによって、蜜蝋を明証的に把握する[17と8にMP]
  1. 精神そのものによってのみ、蜜蝋を明証的に把握する[5と10,16,18に排中律を適用]
  1. 精神そのものによって蜜蝋を明証的に把握するとき、その把握の主体である「私」の存在が明証的に把握される[方法的懐疑の結果]
  1. 蜜蝋のケースは、任意の物体の把握においてなりたつ[直観⑩]
  1. 任意の物体の把握において、その把握の主体である「私」の存在が明証的に把握される[19と20にMP,21に全称汎化を適用]
  1. 私の精神のすべての様態において、「私(=考えること=精神)」の存在は明証的に把握される[2,3,4と22に構成的両刀論法(自然演繹でいうところの選言除去則)を適用]

∴私にとって、「私=考えること=精神」の存在はもっとも明証的に把握される[23より]

 

*1:世界の名著版は、省察の一番面白いところであるメルセンヌガッサンディホッブスなどの反論が載っていないのが玉に瑕である。一方で、著名なエリザベト王女との書簡が収められており、こちらは必見である。Norton Introductionシリーズは、哲学の各トピックについて概説と主要論文数本が載っている、最も優れた哲学入門書のひとつで、これにもエリザベト王女との往復書簡が付属している。

*2:ちなみに、徹底した唯物論者で有名なホッブスはこの点を批判して「デカルトは本質と存在を同一視している」という