The Fine Game of Nil ~虚無の素敵な戯れ*~

日々感じたこと、読書や研究のためのメモとしてまったり使っていきます。主なトピックは進捗報告と哲学についてです。コメントは気になったものについては返信させてもらいます。*訳は村山達也(2017)による。

哲学の「論証」を分析してみよう ~デカルト『省察』より第二省察

今回の記事は哲学の話題についてである。哲学において「論証」が重要なのは言うまでもないが、実際に哲学者がどのように論証を構成しているかを分析するのには骨が折れる(そしてこれが、哲学研究者あるいは文献学者の仕事の一つでもある)。今回の記事においては世界で最も有名な哲学書のうちの1冊、デカルトの『省察』から第二省察「人間精神の本性について。精神は身体よりも容易に知られること」を取り上げ、その論証を分析した上で再構成することを試みようと思う。 

 

翻訳は以下2冊を参考にした(以下ページ数は井上、森訳による)。それぞれ日本語、簡便な英語で書かれており、ラテン語やフランス語が堪能でない(私のような)素人でも手軽に読むことができるはずであるから、読者諸賢におかれてもぜひ一読することをお勧めする。*1

 

 

The Norton Introduction to Philosophy

The Norton Introduction to Philosophy

 

 

【第二省察の概要】

デカルトの「我思う故に我あり」は非常に有名だが、第二省察でもこの証明が(簡易なものではあるが)行われている。しかし第二省察はそのタイトルの通り「人間精神の本質」を探求するものであるから、ここに留まるわけにはいかない。すなわち「ここで示された「私」とは一体いかなるモノなのか?」という問いこそが、まさにこの省察におけるデカルトの課題なのである。そこで、まずはデカルトの根本命題である「われ思うゆえに我あり」の第二省察における論証をチェックしたのちに、「『我あり』というときの『我』とはなにか」という問題に対してデカルトがどのように応えているかを確認する。このような下準備のもとではじめて、彼がいかにして「精神は身体よりも容易に知られるということ」を導いているのかが理解できる。ではさっそく、その足跡を辿ってみよう。

 

【第二省察における「我思う、ゆえに我あり」の証明】

ここではじめにデカルトが行っている論証自体は『方法序説』のそれと大きくは変わりなく、「Je pense donc je suis.」、ラテン語であの有名な「cogito ergo sum」である。注意するべきは、ここでデカルトが[直観①]に対してとっているスタンスである。方法序説や第一省察においては、これを一般化し「あらゆる懐疑のたびに懐疑するという判断が生じている」という形で述べている。第二省察においても同様のことは示唆されているが、あくまでここは翻訳に忠実に論証を組み立てた。

 

  1. 私の意識において、感覚が示されている[事実]
  1. 私の意識において、感覚が示されているならば、それはすべて偽でありうると判断している[方法的懐疑の結果]
  1. 私の意識において、感覚が示されているならば、それはすべて偽でありうると判断するとき、私の意識においてある判断が生じている[直観①]
  1. 私の意識においてある判断が生じているとき、私の意識のただひとつの判断の主体が存在する[直観②]
  1. 私の意識のただ一つの判断の主体が存在する[1と2,3,4に推移律を適用]
  1. 私の意識において、判断の主体は「私」である[定義]

∴「私」は存在する

 

 

デカルトはこの論証に対して考えられる批判を想定して、以下のような再反論も行っている。大した手間ではないので、[直観②]への批判と、その再反論いついては一応確認しておこう。他には[直観①]を批判する道も考えられるが、これには多くの問題が関連し、この記事の本題から外れてしまうのでここでは省略する。

  

1.⑶は偽である(判断が生じているからといって、その主体があるわけではない)[論証の前提への批判] 

2.⑶が偽であるとき、私の意識において欺かれており、判断の主体はない[想定] 

3.私の意識において欺かれているとき、欺かれている主体が存在する[直観]

∴ 欺かれている主体が存在する[2と3にMPを適用]

  

いかがだろうか。これが第二省察におけるデカルトの「われ思うゆえに我あり」の論証である。さしあたりこの論証の評価については保留し、とりあえず本文の以下の記述(pp.245〜)を追ってみよう。次に示すべきは、ここで言われている「私」がなにものか、すなわち私の本質とはなんであるか、についてである。

 

【必然的に存する「私」とは考えるもの(=精神)である】

結論から言えば、デカルトにとって「私」の本質とは「考えること」であり、それ以外のなにものでもない。ここからデカルトは「私は考えるもの(=精神)である」ことを導く*2。この証明においては、参考までに以下に関連する箇所を抜きだしておこう。

 

「しかしながら私は、いまや必然的に存在するところの私が、いったいいかなるものであるかは、まだ十分には理解していないのである。(中略)そこで私は、このような思索をはじめる前には自分をなんであると思っていたのかを、あらためて考察してみよう」(pp.245)

 

「その際、最初に浮かんできたものは、私が顔や手や腕をもち、もろもろの肢体から成る全機構をもつということであった。(中略)次に浮かんできたのものは、私が栄養をとり、歩行し、感覚し、考えるということであった。私はこれらの活動の源は精神にあると考えていた。(中略)これ〔引用者注:精神のこと〕が身体の粗大な部分(つまり手や腕や足など)にゆきわたっているのだと考えていた」(pp.246)

 

  1. 「私」とは物体に属するか、精神を源とする諸活動であるかのどちらかである。[直観③] 

2.任意の物体は、なんらかの形によって限られ、場所によって囲まれ、ほかのすべての物体をそこから他のすべての物体を排除するような形で空間をみたすようなもの…という性質を本性としてもつ[直観④]

3.「私」は物体の本性に属するといわれるものについて、それのうちどれひとつも性質として持っていない[方法的懐疑の結果]

4.「私」は物体には属さない(「私」は物体ではない)[2と3にMT(後件否定)を適用] 

 

  1. 任意のものについて、それが精神を源とする諸活動を行うとき、栄養を摂取するか、歩行するか…であるか、感覚するか、または考えるかのいずれかである[事実]
  2. 栄養を摂取し、歩行するか…または感覚するものはすべて物体である[事実]
  3. 「私」は栄養摂取する、歩行する、感覚するもののいずれにも属さない[4と6にMTを適用] 
  4. 任意の性質pと任意のxについて、xが存在するときxはpという性質をもつことがつねになりたつならば、xは必然的にpという性質をもつ[デカルトの前提①]
  5. 任意の性質pと任意のxについて、xが必然的にpという性質をもつとき、xはpするものと同じであることは必然的である[デカルトの前提②]
  6. 「私」が存在するとき、「私」は考えるという性質をもつ、ということはつねになりたつ[方法的懐疑による結果]
  7. 「私」は必然的に考えるという性質を持つ[10と8にMPを適用]
  8. 「私」が考えるものと同じであることは必然的である[11と9にMPを適用]

∴  「私」は考えるもの以外のものではない[1と4と7と12に排中律を適用]

 

 

【考えるものである精神としての「私」が、私によって最も明証的に知られるものであることの証明】

さて、いよいよ本丸である。これまででデカルトが論証してきたことを用いて、ようやくこの省察のメインとなる命題が示せる。この論証は非常に長くなるため、論証を見ておく前に要約してみよう。

ここまでで「私」が考えるもの、すなわち精神にほかならない事が示された。以下の論証の[直観⑤]にあるように、実体である精神は現実では、疑いや意志、感覚などの形をとる(哲学の専門用語でこの事を様態[羅:modus]という)。ここからデカルトは、精神のいかなる様態においても、考える私=精神そのものこそが最も明証的に把握される、ということを、[直観⑥]以下で場合分けを行いながら論証している。

想像したり何かを意志したりする場合を考えてみると、そのときに「『私』が存在すること」が(しばしば曖昧な想像や意志の中身よりも)明証的に把握される、というのは納得のいかない話でもないだろう。しかし、ここで問題となりそうなのは外界にある「物体の把握」である([想定]より以下)。我々は普通に物体を把握する際、自分自身のことよりも物体の方を明証的に把握すると考えるが、デカルトによればそうではないという。蜜蝋を把握するとき、それを感覚したり想像する(場合分けの(ⅰ)と(ⅱ))のではそのものそのものを捉えることはできない。そして、精神のみをもちいて蜜蝋の広がり(=延長)を捉えるとき(場合分けの(ⅲ))にはじめて、あらゆる変化のうちにあって耐続する蜜蝋そのものが把握できるのである。

そして、このような精神そのものによる把握はつねに次のようなかたちをとる。すなわち「私は蜜蝋を見る(と思う)」と。ここまで来れば合点がいくだろうか。すなわち方法的懐疑がそう示してきたように、この場合にあっても「〜と思う『私』」の存在が帰結するのだ。さらにこの場合、蜜蝋は(錯乱や精神的不備によって)実在的には存在しない可能性もあるのだから、蜜蝋の存在よりも、「考える『私』」の存在の方が明証的だ、ということも出てくる。

そしてここまででついに、精神の様態について全ての場合分けを検討することができた。いずれの様態においても「考える『私』が存在する」ことがもっとも明証的に把握されるのだから、「考える『私』=精神」はそれ自身の存在を(身体、物体などのほかのものよりも)明証的に把握するということが言えるだろう。

 

 【私の精神が、私によってもっとも明証的に把握される】

  1. 「私」は考えるもの(=精神)である[前の論証の結論]
  1.  考えるものには疑い、理解し、肯定し、否定し、意志し、意志しないものであり、想像すること、また感覚すること、物体を把握することが属する[直観⑤]
  1.  疑い、理解し、肯定し、否定し、意志し、意志しないとき、想像するとき、私の意識にあらわれるその主体(=「私」=精神)は、最も明証的に知られる[方法的懐疑の結果]
  1.  蜜蝋という外界の物体を把握するとしよう[想定]
  1. 蜜蝋を把握するとき、感覚、想像、精神そのもののいずれかによってとらえられる。[直観⑥]

(ⅰ)感覚によって蜜蝋を把握するとき

  1. 感覚によって蜜蝋を捉えるならば、感覚によって捉えたもの(=蜜蝋の色や香りなど)は変化し、存在しなくなることがある[事実]
  1. 感覚によって捉えたものが変化し、存在しなくなるとき、蜜蝋そのものが存在しつづけることは可能である[事実]
  1. 任意のものとその把握について、その把握が明証的であるのは、そのものそのものを把握するとき、かつそのときのみである[定義]
  1. 感覚によって蜜蝋を捉えたものは蜜蝋そのものではない[6と7に推移律を適用する]
  1. 感覚による蜜蝋の把握は明証的ではない[9と8にMPを適用] 

(ⅱ)想像によって蜜蝋を把握するとき

  1. 想像は変化をつうじて存続する蜜蝋の広がりを、その変化が有限の間である限りにおいて把握する[直観⑦] 
  1. 蜜蝋のもつ広がりは、無数に変化しうる[事実]
  1. 想像によっては、蜜蝋のもつ広がりを捉えられない[11と12にMTを適用]
  1. 蜜蝋そのものとは、蜜蝋の広がりのことであり、それ以外ではない[直観⑧]
  1. 想像によっては蜜蝋そのものを捉えられない[13と14を同値変形する]
  1. 想像による蜜蝋の把握は明証的でない[15と8にMPを適用] 

(ⅲ)精神そのものによって蜜蝋を把握するとき

  1. 精神そのものによって蜜蝋を把握するならば、外的な形態と区別してものそのものを把握する[直観⑨]
  1. 精神そのものによって、蜜蝋を明証的に把握する[17と8にMP]
  1. 精神そのものによってのみ、蜜蝋を明証的に把握する[5と10,16,18に排中律を適用]
  1. 精神そのものによって蜜蝋を明証的に把握するとき、その把握の主体である「私」の存在が明証的に把握される[方法的懐疑の結果]
  1. 蜜蝋のケースは、任意の物体の把握においてなりたつ[直観⑩]
  1. 任意の物体の把握において、その把握の主体である「私」の存在が明証的に把握される[19と20にMP,21に全称汎化を適用]
  1. 私の精神のすべての様態において、「私(=考えること=精神)」の存在は明証的に把握される[2,3,4と22に構成的両刀論法(自然演繹でいうところの選言除去則)を適用]

∴私にとって、「私=考えること=精神」の存在はもっとも明証的に把握される[23より]

 

*1:世界の名著版は、省察の一番面白いところであるメルセンヌガッサンディホッブスなどの反論が載っていないのが玉に瑕である。一方で、著名なエリザベト王女との書簡が収められており、こちらは必見である。Norton Introductionシリーズは、哲学の各トピックについて概説と主要論文数本が載っている、最も優れた哲学入門書のひとつで、これにもエリザベト王女との往復書簡が付属している。

*2:ちなみに、徹底した唯物論者で有名なホッブスはこの点を批判して「デカルトは本質と存在を同一視している」という